越谷12月議会は、「辻浩司議員への反省を求める決議」で、激しい論議が展開されたが、もう一つ極めて重要な議案が可決されてしまった。
それは「仮称第3庁舎建設工事請負契約の締結議案」で、賛成21、反対9だった。
この第3庁舎建設問題は、昨年の9月議会以来、再三再四問題が浮上したため、1年3か月に渡り論戦を展開してきた。以下は12月議会での私の反対討論。

議会録画はココをクリックしてください。

議長の許可を頂きましたので、第113号議案「仮称越谷市役所第3庁舎建設工事請負契約の締結について」に新政クラブを代表して反対討論をします。

この第3庁舎問題の発生の原点は、平成24年9月議会から始まります。
市長はこの9月議会に一般議案ではなく、補正予算として第3庁舎の設計委託料を突然、まさに事前の経過や説明を抜きに唐突に提案されました。
 当然9月議会の本会場では、様々な立場の複数の議員から質問や疑問、心配の声が次々に上がりました。あらためて議事録を調べてみましたが、
その中では「今回の第3庁舎建設の関しては、施政方針にもうたわれておりませんので、また私達議員が知ったのは、この9月議会に入ってから知ったわけでありますけれども、一体いつこの計画が決定されたのか。そしてまた何故今の段階で提出をするのかというところについてお尋ねします」

また、「なぜ今の段階で第3庁舎を建設しなければいけないのというところは、まだちょっとひっかかるのです。例えばこの議案を今回可決しなければ、市民の皆さんに大きな不利益が生じるとか、あるいはこの議案を通さなければ今後大きな問題が発生するのだということであれば、そういう緊急性が伴うものであれば、市民の方々に納得していただけるのかなと思っていますけれども、そこら辺の緊急性があるのか、ないのか」
さらに
「まずもって私も、これ唐突に補正で出てきたこと、非常に疑問に思っているわけでして、こういう事業は当初予算に計上するのが本来であろうということは、これは皆さん同じ思いであるのかなあ、思っております。」
「今回のこの第3庁舎の関係という問題につきまして、本庁舎の耐震補強あるいは建て替え、この問題と私はセットで考えるべきだろうなと、このように思うわけでございます」
 この様に、当初からこの事業には市民が納得できない様々な問題が発生しており、1年3か月に渡り今日に至るまでこの疑問は依然として払しょくされてはいません。
                             
 つまり、第3庁舎の必要性、緊急性、妥当性という根本の問題が浮上し、本庁舎の耐震化の問題や全体のグランドデザインとの整合性を含め、その後の平成24年12月議会での「本庁舎整備審議会の設置条例」さらに平成25年3月議会での平成25年度当初予算での「建設工事費の計上」に続き、本議会での契約議案の提案に繋がっています。

 私達新政クラブは、この間一貫して一連の議案に反対し、様々な角度から反対の理由を明らかにして来ました。
しかし勿論反対のための反対ではなく、常に修正案を準備し、その提案説明を誠実に実行し、議員各位からの質疑にも真摯に応えてきました。
また平成25年9月議会を報告した「新政クラブ会報」(No 26号 )の紙面には、現状の狭隘化の解消や本庁舎の耐震化対応を一体的に解決する試案としての「グランドデザイン」(越谷市役所庁舎の在り方)を研究・発表し、第3庁舎の建設を前提にしない解決策の一つの材料を提起しました。
勿論、これは市長や執行部を含め、市民への新たな選択肢として提起したものです。
これらの取り組みからも明白な事は、市長が示されてきた基準を十分理解しながらも、別の視点から、さらなる多様な基準と討論の材料を常に用意し、市民への説明責任と議会での合意形成を図る努力をして来ました。
しかし、残念な事ですが市長がこれまで提案されてきた第3庁舎に関わる議案は、いずれも何ら修正されることなく議会では賛成多数で可決されて来ました。
しかも、先の市長選挙では多くの市民にとって第3庁舎問題は、大きな争点にはならず、この問題を通して、今後の越谷のまちづくりに関わる市民自身の多様で多元的な議論をする最大の政治的チャンスをいかせなかったかもしれません。
ただ、だからと言って今日越谷市が抱える時代の劇的変化に伴う問題が解決されたわけではありません。
むしろ、有史以来前例のない人口減少時代はすでに始まっていますし、生産労働人口の減少による税収の構造的落ち込み、超高齢社会における、団塊世代が後期高齢者になる所謂2025年問題、再生可能エネルギーへの転換を通した新たな地域産業構造の構築など、どれ一つをとってもこれまでの経験や蓄積では一切対応できない課題が、私達の地域に厳然と存在しています。
この問題に果敢に挑戦するには、市長や執行部や議会はもとより、何より市民が自ら参加し、協議し、選択し、責任を引き受ける自覚とそれを基盤とする地域共同体の再生が不可欠です。
このためにこそ、我々政治家はその職責を果たし様々な公共空間の創出に向け、市民が考え、悩み、決断する民主主義の社会的インフラ整備が必要です。
これには徹底した市民参加と情報の公開によって担保さるのは言うまでもありません。

これまで、第3庁舎の問題点は、本会議、常任委員会、予算決算特別委員会等で、再々再四指摘しましたので、繰り返しませんが、前述した「市民参加と情報公開」について、ここでは特に言及します。
市長、執行部は、この間の答弁で第3庁舎は、もっぱら執務室と会議室を使用目的とするものだから「市民への事前の説明はしないし、市民広聴会も開催しない、さらにパブリックコメントもとらない」発言されて来ました。
これは一体何を意味する発言と姿勢なのでしょうか。市政運営上の重要な象徴的な問題として3点に渡り指摘します。

まず第1に、平成21年6月19日に制定された自治体の憲法と位置づけられている「越谷市自治基本条例」の原則的考え方に立たなければなりません。
条例の第18条「市政運営の原則」の項では。
「市長等は市政に関する情報を市民に提供するにあたっては、情報を市民に分かりやすく広くいきわたるように努めます」として明記し、さらに
「市長等は、政策や施策の立案、実施及び評価のそれぞれの過程において、その手続き経過、内容、効果を市民に分かりやすく説明します」と強調しています。さらに第26条「意見公募手続き」では。
「市長等は「基本構想」を始めとする重要な計画等の策定にあたっては、あらかじめ計画等を公表したうえで、市民からの意見を募る手続きを行います。」と。
言うまでもありませんが、庁舎の建設は単に公共施設の建設に留まらず、市政運営の拠点施設であり、それは市長にとっても市民にとっても最も重要な砦に他なりません。だからこそ、この砦の建設はその構造はもとより、市民が主体的に参加し、市民自身が自らの共有物としての自覚をもって頂くために、政策決定過程への参加と合意形成の在り方に心を砕かなければなりません。
また当然ですが市長にとっては中核市移行は勿論、今後数十年に及ぶまちづくりの典型的なモデルとして着手する事業に位置づけられるものです。

第2に、市長はこの事業や予算は議会が承認してきたものであり、正当性があると強調されております。確かに議会の機関手続きとしては何ら瑕疵はありませんし、私もそれは認めます。
しかし、市長や議会の承認が常に市民にとって有効な結論である、とばかりとは言えない事があります。
その実例として、今週の12月15日に北本市での住民投票の結果とその手法が大いに教訓化出来る実践例があります。

ご承知の通り北本市の新駅建設を巡り、その賛否を問う住民投票が実施され反対が26、804票、賛成が8353票で、投票率は実に62、34%に達し前回の北本市長選挙の53,82%を上回る投票結果となりました。
北本市長は住民投票の実施に際して「1票でも反対が多ければ建設は白紙に戻す」と発言しておられましたし、投票結果後にも市民の意見に従い、計画を撤回すると発表されています。
しかし、この新駅建設はすでに約30年間に渡り論議がされてきたもので、2004年には市長や市議会、新駅周辺自治会などによる「新駅設置促進期成同盟」が結成され、2009年には市議会で「新駅の促進を求める決議」を全会一致で採択しています。このため機関手続きに従い新駅建設をスタートさせるのに十分な論拠はありました。
しかしそれでも北本市長は、多額の税金を投入する事業であり、また市の発展にとって極めて重要な施設であるとの考えから、あえて住民投票を通して市民の意志の集約とまちづくりへの市民参加と情報公開を進めるために、住民投票に踏みきられたそうです。
北本市長にとっては残念な結果になった事は事実ですが、反対した市民からは「子どもや孫の代まで負担を強いるわけにはいかない」と話し、また新駅を推進し賛成した市民からは「街の将来を真剣に考える糧になった」と話しています。
賛成、反対のどちらにしても、市民自らまちの将来に対して責任を持とうとする大きな舞台となったことは最大の成果ではないか、と考えます。
これこそが高橋市長がよく言われる「住民自治の基盤」なのではないでしょうか。また市長や議会が正規の手続きで進める事業であったとしても、それは市民全体の意志とは違う結果となることもあり得る、と言うことです。
この点からも、計画段階から徹底して情報を公開し、多様な市民の意見を聴取し、複数の選択肢を提案して、合意形成を図ることが重要だと、考えます。

最後にドイツ生まれのユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント有名な言葉「凡庸の悪」と「凡庸の善」につて言及します。
「凡庸の悪」とは。ある裁判を傍聴したアーレントは、
 「それは、自ら判断し責任を自覚することができず、そしてまた、善を意志することのできない、そのような凡庸さに宿る悪のことだ。」と指摘しています。
 ヒトラー独裁下のドイツにおいて行われた、数々の残虐な行為。悪を行ったのは、まさにごく普通の人々でした。その典型的な例として600万人に及ぶユダヤ人虐殺の責任者のナチ将校アイヒマン裁判を取り上げています。
 アイヒマンは、ガス室のある、絶滅収容所へ送る列車移送を指揮しました。法廷に出てきたアイヒマンはごくごく普通の人間に見え、所作も質問への回答も礼儀正しく、口から泡を飛ばして手を振り上げることもなく、罵り言葉を口にするわけでもありませんでした。
アイヒマンはただ、「忠実に仕事をこなす」と親衛隊入隊時に誓った言葉をしっかり守っただけ、に過ぎない。ユダヤ人の移送命令書に責任者としてサインをすること。上から与えられた指示通りに、何百万というユダヤ人を強制収容所に移送すること。それが彼に与えられた仕事で、そこに異を唱えることも、良心の呵責を感じることも、その行為が良いことかどうか考えることも、アイヒマンは一切しませんでした。
裁判を傍聴したアーレントは、そのアイヒマンの“凡庸さ”こそが、悪ではないかと考えました。
「善か悪かを自分で判断することなく、考えることを止め、ただ命令に従った」このことこそが、アイヒマンの責められるべきところだと。
 最も醜悪な悪は、判断力と責任感覚と善への意志を欠いた、ごく普通の「凡庸さ」から生まれるものだ。
 だからこそ、私たちはもう一度、個人の責任、判断力、意志の力を考え直し、これを再興しなければならないのではないか。と問いかけています。
この様な「凡庸の悪」に対抗するのは「凡庸の善」を無数に紡ぎだすことで対処するしかありません。この「凡庸の善」の舞台こそが地域共同体であり、そのために市長や議会や市民がそれぞれの責任と役割を果たす事により、「自分の頭で考え続け、選択していく姿勢と、その公共空間を政治が作り出すことにより」未来を選び取る事が必ず可能になると確信しています。
以上この事を強く主張し、反対討論を終わります。