メルマガ♯がんばろう、日本!         №250(19.5.31)

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「がんばろう、日本!」国民協議会

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Index 

□ 「2020後」を生き抜くために、私たちはどういう社会を望むのか

  ~人口減少時代の政策思想の軸の転換にむけて

●「制度の外」の声に、どのように近づき、とらえるか

「声をあげたから変わった」という政治的有用感へと、どう結びつけるか

●「2020後」を生き抜くために

 自己責任―今だけ、カネだけ、自分だけ―で逃げ切れるのか

 「選択―責任―連帯」の社会をめざすのか

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「2020後」を生き抜くために、私たちはどういう社会を望むのか

人口減少時代の政策思想の軸の転換にむけて

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●「制度の外」の声に、どのように近づき、とらえるか

 「声をあげたから変わった」という政治的有用感へと、どう結びつけるか

 この夏の参院選を控えて同日選も含めた永田町の駆け引きが始まっている。令和フィーバーやトランプ来日狂騒など、「パンとサーカス」ならぬ「パンなしのサーカス」が連日繰り広げられるのも、その一環ともいえる。この統一地方選で(も)浮き彫りになった事態を直視することなしには、こうした事態に浮き足立つことになる。

 私たちが直視すべき現実は、例えばこのように提起される。

「今日確認する必要があると思っていたことを、まずお話しします。

首都圏では、十名以上落選するような選挙がむしろ普通だったのではないか。場所によって違いますが、一・三倍から一・五倍くらいの競争率の選挙は、首都圏近郊にはざらにあった。そしてそれは特別なことではなくて、大都市とその近郊では激戦の選挙が普通の状態になりつつあると。~中略~

空前の競争率にもかかわらず、投票率は全然上がらなかったところが多いわけです。普通に考えれば、立候補する人が増えれば、その人たちはこれまでの立候補者が訴えてきた以外の人にも訴えているはずです。つまり新たな投票者を開拓できるはずなのに、それが効果をもたらしていない。立候補者数が増えても、票を開拓をする力―有権者に選挙にコミットしてもらう力は上がっていないということです。

立候補者が足りない地方の町村議会の方が、まだ原因――あんな報酬では生活できないなど――は分かりやすいかもしれない。地域によっては、女性が立候補すること自体「ありえない」という感覚がいまだに根強いので、余計に担い手不足になっている。そうなると、生業と議員活動の両立を考えるとか、女性が立候補しやすくするにはどうしたらいいかとか、対策を立てるべきポイントもそれなりには見える。

ところが都市部では専業議員として生活できる報酬はあるし、女性議員も―まだ課題は多いとはいえ―増えている。立候補者数は多いにもかかわらず、有権者に選挙に来てもらえない。これはなかなか深刻な問題だと思います。(意欲を持って出てきた人がいても、それが有権者に響かない構造でもある。)~中略~競争率が上がったにもかかわらず、投票率が上がっていないところの方が、実は難しい課題に直面しているのではないか、と感じます。

 個々の当落を超えて、選挙全体としてこういう深刻な課題に直面していることは、確認しておく必要があるだろうと思います」(廣瀬克哉・法政大学教授 2―6面「囲む会」)。

 今や投票率は国政選挙でも五割、都市部の地方選挙では三割台も珍しくない。過疎地だけではなく、都市部でも無投票選挙区が出現している。このように多くの民意が「投票箱の外」に置き去りにされたままでは、選挙を通じて地域の課題を表出することさえできない。

 選挙を変えるとは、この構造を変えることにほかならない。そのためには、候補者が一方的に政策を示したり、有権者市民を支持者として見るのではなく、「地域の課題を共有する」場として選挙をどうセットするか、という問題設定が必要になる。

 「言い換えれば、選挙を地域の利害や意見の違いを『数で決着つける』場ではなく、さまざな地域の課題が提起され、それらを共有していくための場へとつくりかえることです。公約やマニフェスト、審査員としての構えについても、市民との共同作業を通じて、課題を共有する当事者性を涵養しようではありませんか」(第9回大会 よびかけ)。

 問題の構造は、例えばこういうことだろう。選挙では多くの候補者、政党が「子育て支援」を掲げる。一方で子育て当事者たちは、「これは何とかならないか」「こうしたらいいのに」と思っていても、「言ってもしかたない(伝わらない)」と思っていたり、「どこにどう伝えれば物事が動くのか、ラインがみえない」とあきらめていたりする。しかも選挙の「公約」に並ぶ子育て支援は抽象的なスローガンばかりで、どれも同じにしか見えないので、選びたくても選べない。

 公的なサポートなしに子どもを育てることにはさまざまな困難が伴う、というのが子育て当事者の生活実感だが、その生活実感が選挙での選択―主権者としての一票―と結びつかないまま、「制度の外」に追いやられている。

 子育てに限らないが、こうした「制度の外」に追いやられた生活実感を、どのように社会の問題(自己責任ではなく社会で解決する課題)へと押し上げるか、そしてさらに「制度を変える」プロセスにのせていくか。こうした民主的プロセスの媒介、促進剤になることは、パブリックな存在としての政党や議員の役割だろう。選挙はそうした場のひとつにほかならない。

 多くの人は生活のなかの「困りごと」に直面したときに、政策の当事者としての実感を持つ。しかし政策決定の場が、そうした実感とかけ離れていればどうなるか。

 2016年、「保育園落ちた、日本死ね」という待機児童問題を訴えるブログが話題になった。制度の外に追いやられた声を女性議員が国会で取り上げたとき、制度の中の反応はどうだったか。首相の答弁は「匿名なので(事実かどうか)確認できない」。与党議員からは「本人を出せ」というヤジが飛んだ。

 公的なサポートなしに子どもを育てることにはさまざまな困難が伴う、という生活実感が分からない、分かろうともしない人たちが、選挙公約として打ち出したのが、消費増税と引き換えの幼保無償化。制度の外から上がった声は大きな反響を呼んだため、制度の中にも届いたかもしれないが、アウトプットとして出てきたのは、誰がこんなものを望んでいるのかという政策だった。

 無償化といっても、厳密には無償化の範囲には制約がある。しかも保育料は元々所得に応じて決まっているので、無償化の恩恵が相対的に大きいのは高い保育料を払っている(所得の高い)世帯である。そして何よりも子育て当事者が望んでいるのは、無償化ではなく全入であり、そのための保育士の確保・待遇改善などの施策だ。

 さらに子育て支援策の現場を担う自治体にとっては、国がおしつける無償化の財源を一部負担するために、自治体独自の施策の財源を削って、それに充てなければならないことになる。子育て支援と一口に言っても、地域によってニーズも課題も異なる。それに対応して工夫されてきたはずの自治体独自の施策が、国から押し付けられた全国一律の政策によって制約されることにもなりかねない。自治体によっては子育て支援よりも優先度の高い施策がありうるが、その財源を削らなければならないかもしれない。まさに地方自治―自己決定権の侵害にほかならない。(第九回大会 パネルデイスカッション 松本・和光市長 参照)

 そのうえ待機児童問題の反響に慌てて打ち出された支援策が、規制緩和による企業主導型保育事業(付け焼刃で箱だけ増やす)だったり、あろうことか「子連れ出勤」への補助金ときては、「何を言っても伝わらない」と絶望的な気持ちになるのも当たり前だろう。

 制度の外の声に反応する、あるいは政策の受け手(当事者)との関係性―実態とのズレも含めて―を実感を伴ってとらえることができるのは、国政ではなく地方自治の現場だ。ここでこそ、生活実感と政治・政策決定が絶望的に乖離している構造を変えなければならない。

「特に小学生や、もっと小さいお子さんを育てている世代では、政策によって支えられないと子育ては厳しい、というのは当たり前の現実ですが、それ以外の世代にはその切実感がない。現実がどうなっているかも見えていない。~社会を維持、再生産していくために不可欠な政策領域に、どれだけの資源をつぎ込まなければならないかという現実認識がないまま、やっているわけです。

小学校には待機児童はいません。義務教育だからです。では学童や保育所にはなぜ待機児童が出るのか。政策を判断する時の優先順位の高さ、(義務教育と同じ程度に)必要なだけ確保することがなぜ必然でなければならないのか、という認識がズレていたからです。

財源が云々と言いますが、ハッキリ言えば増税すればいいんです。日本社会の国民負担率は、先進国のなかでもアメリカを除けば圧倒的に低い。低い負担と必要なサービスとのギャップを、どうやって埋めているかといえば借金です。あえて言えば、もっと借金することもできる、それが望ましいかどうかは別として。借金してでもやるべきだという認識がなかっただけの話です。

政策による公のサポートが確保できなければ、個々人のレベルでは、子どもを産まないという選択をしてしまう。『産めよ、育てよ』と国が旗を振るのはおかしい、という感覚は分かりますが、じつは『産めない、育てられない』という風潮に向けて国が旗を振っているわけです、無意識のうちに。その結果、他の多くの国にはあった第三次ベビーブームを日本では起こさせなかった。

これが政策の結果なんだという反省へのとっかかりが、国政の中で出てくる可能性は低いと思います。他方で自治体は、政策の受け手とその政策の関係性についての切実さとか、何がないからこういう選択になるのか、ということを実感できる現場がある」(廣瀬先生 前出)

生活実感に根ざした優先度の高い政策領域をめぐって、候補者と支持者あるいはそのメッセージが伝わっている層(政策の当事者)との実感をめぐる相互関係を、どこまで作り出すことができるか。選挙を通じて、そうした「制度の外」の声をとらえることができるなら、選挙後は任期を通してその関係性どう持続し、再生産していけるか。議会審議への参画などを通じて、「声を上げればこう変えられる」という政治的有用感へとどう結び付けていけるか。市民の側も「私の困りごと」を議員を通じてなんとかする、ではなく「市の課題、社会の課題として提起し、解決にむけて合意形成するのが議員の仕事だ」というところへと押し上げていけるか。

 地域や社会を維持・再生産していくための、民主主義の持続可能性が問われている。

●「2020後」を生き抜くために

 自己責任―今だけ、カネだけ、自分だけ―で逃げ切れるのか

 「選択―責任―連帯」の社会をめざすのか

~以下「日本再生」481号一面へ続く

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石津美知子
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